「趣味特技:悩むこと」からの脱却はまだできそうにない

 前回の日付を見て何ともいえない気持ちになっている。約4ヶ月。歴史は繰り返す。気が付けば8月が終わっていた。
 夏らしいことが何かできたかと随所で聞かれる今日この頃、なんとなく困ってしまうのはどうしてなのだろう。楽しいことは、少なく見積もっても片手以上にはあったはずなのだけれども。
いかに刹那的に日々を生きているか証明しているようだ。
 
 
 何ヶ月もしまい込まれている教科書なんぞをちらりと広げてみると、ろくすっぽ使ってない頭からは知識が零れだしていることを実感する。
狂牛病じゃないけれど、まるで脳が干からびたスポンジそのもの。
このままだと活字を読めなくなってしまいそうで少し、いやだいぶ、怖い。数少ない趣味の消失は防ぎたいところだ。
 とは言うものの、可及的速やかに読書をせねばならない、そんなスライスチーズほどの薄い強迫観念を持ち続けて早数ヶ月。全うされる日は何処や。
読みたいものはA4用紙いっぱいにリストアップできるくらいあるのだけれど、如何せん色々なものが足りない。頭、時間、お金。
24時間の使い方がもっと上手ければいいのにと心底思う。
 
 
 しばらく穏やかな状態が続いていたせいか、久しぶりに悩みの種ができるとそれがとてつもなくしんどい。こんなにストレス耐性低かったかしらと自問自答してしまうくらいには。まさに平和ボケの弊害だ。
 就活で常に気力ゲージが削られていることを差し引いても、電子の文字にひどく心波立つのは我ながら辟易する。なんとも心が狭い。
嫌な人間になりたくないと思った時にはもうそのものになってしまっていたりするのだ。(似非)博愛主義が聞いて笑わせる。
対人関係を狭めるとコミュニケーションが下手になるということがこの3ヶ月ほどで身に染みてよく分かったので、余計に二進も三進もいかない。他者を慮る気持ちは関わり合いの中で生まれているらしい、私の場合。
傷付くのは嫌だし傷付けるのも嫌だ。駄々っ子のようにお布団の上で転げ回りながらそんなことばかりを考えている。不毛な行為にこそ真理が隠されているのだなんちゃらかんちゃら。
 私にとっての好きは誰かにとっての都合の悪いもの足り得、逆もまた然り。一個人の感情は混ざり合い溶け合うことなんてできない。好き+好きが大好きになるなんてことはないのである。いっそのこと式ができたら楽なのに。
冗談や軽口をそれと認識できなくなるくらいには参っているのだと思う、多分恐らくきっと。いや、そもそも冗談だと思っているのはもしかしたら私だけなのかもしれないけれど。
 リセットもデリートも許されていない現実に、時々、どうしようもなく眩暈がする。
人生にも攻略本があったらいいのになあ、なんてね。

新年度の持つこの精神的な重みは一体何なのか

 年度変更に伴ってブログの書き方もまた変えてみることにした。THE 気分。
お久しぶりです。気が付いたら4月になっていました。3月はどこにいったんだろう。
 
 
 最近の悩みといえばもっぱら気分が良すぎることで、つまり悪いことが起きてなさすぎる。幸せを享受しまくっている今日この頃。
なんというか私は自分が悩んでないと落ち着かない性分であるので、こうあんまりにも平和だといつか突然ツケの不幸が一気にくるんじゃないかと不安になって仕方がない。いやあ、損な性格だと思う。転ばぬ先の杖?ちょっと違うか。
 
 
 つい先日、ゲイバレしたら友人に暴言を吐かれたという釣り?ツイートが回ってきてスルッとそれに騙されて気分が悪くなっていた訳なのだけれど、あれって正味のところ「こういうことを言う人がいてもおかしくない」と多数が認識するからこそ出来上がってるんだよなあ、となんとも言えない気持ちになった。
オタク界隈の人はそのへんの理解深いよね、なんて言われたこともあるけれど、ふらふらとぬるいオタクをしている身からするとそうでもないよなという気がする。なんというか、それぞれ主張が激しい。そりゃもう戦争でも起こすのかってくらい過激な言葉を使う人もいる。言葉のチョイスはともかく、本当に無理ですと断言してる人は決して少なくないと思うし、実際その手の話題見るのキツイので〜とフォローを外された事例も知っている。あと二次元はいいけど三次元はだめとか。
まあなにが言いたいかって、オタクであるなしに関わらず性的指向に対する意見は色々あるよねって。
気分が悪くなったのは受け入れられない人がいることに対してではなく(そんなのはあって普通だと思うしなにより思考は強制するものではないというのが持論)、——設定上にしろ——数年来の友人に対して暴言を投げつけることができるというところに寒気がしたからだったりする。怖いよね、普通に。
十人十色、これだけ人間がいればそういうのに全く抵抗のない人もいるんだろうなと思うからこそこんな想像をしてしまうのだけれど。ありえないと一蹴できないラインが絶妙にホラー。ある意味ツイート主は才能あると思うよ。
 
 
 スーツを着て髪を黒く染めて画一的な歯車として就活に勤しんでいる現在、まあ別にそれ自体には特に不満はなくて(面倒だとは思うけど)、未来を自分の力で切り拓いていくのって結構な重労働だなということをひたすらに実感している。所謂レールの敷かれた人生って恵まれてるなとさえ思いますね、ええ。
まあずっとそんな人生送ってたら自分の脳みそ使わなさ過ぎて腐りそうだから手放しに憧れもしないけど。
とりあえずやりたいことは日々蓄積されていっているので、実現のための手段を得るという手段ということできちんと職を決めたいなとは思う。頑張ろうね私。今頑張らなくていつ頑張るのっていうのは正直思う。就活を投げ出してまで目指したいこともないし。安定安泰が一番なんや〜。
 
 
 関係ないけど最近のマイブームは就寝前のストレッチです。目指せ軟体動物!

160211

■気が付けば2月も中旬に差し掛かっている
 自堕落エブリデイ。皆様いかがお過ごしでしょうか。
 年始にもっともらしいことを書いてからしばらくは、差し当り書きたいようなこともなく時間だけが過ぎていた。正確には書きたいことがないわけじゃないけど、打ち込むのが面倒。労力かけて晒すほどじゃないし心の中で日記つけてポエム書いて、おしまい。そんな感じ。
 
■時々ひどく乱暴な物言いをしたくなる
 人生はクソゲーだ。大概のことは思うようにならないし、やりたいという欲求は形になる前にぷすぷすと現実という名の針で突き刺されてしぼんでゆく。私に優しくない世界などいっそのこと滅んでしまえだなんて独裁者気取りの台詞を吐いてみたりするものの、時間の営みの中には意地の悪い感情だって溶けてしまう。まあなんだ、単なる阿呆であるというだけなのだけれど、ちょっとばかり息苦しくなった気がしたから、言ってみたかっただけ。
 今日感じている痛みも苦しみも、いつか何てことのなかったように消えてしまうものなのだ。持続する憂愁なんて、人を殺してしまう遅効性の毒だ。きっと。
 
■都合の良いところばかりを切り貼り
 そして、箱庭を作れたらいいのになと思う。弊害は罪悪感の欠如に違いない。ぼろぼろと崩れ落ちるミルフィーユのように、他の大切な何かと一緒に。
 幸せな夢を見続ける死があるとしたらどれくらいの人が迷う事なく生を捨て去るのだろうと、ふとそんなくだらない疑問が浮かんだ。……本当にくだらないな、今日見た美味しそうなボノワールのチョコと一緒に食べてしまえ。むしゃむしゃ!
 
■幸福と思い込む病
 目の前の事実を正しく認識できないことは時に幸せであるのかもしれない。何が嘘で何が本当か。主観による判断でしかないのだけれど、他者の気持ちを慮る頭を持たない人間はそういう意味でビョーキだ。幸福病。
 言葉の裏に隠された真実を見抜けないままじゃいつかダメになる。そんな気がする。貴方も私も、あの子も。鳥は海中じゃ生きられなくて、魚が陸上で生きられないのと同じように。

160106

■新年明けましておめでとうございます。
 遅ればせながら。今年もどうぞよろしくお願い致します。
 なんだかんだとメモ帳ブログも開設から1ヶ月経ったようです、やったね!
 
■満ち足りているからだんだんと我儘になってゆく。
 自分と他人を比べることですら烏滸がましいのに、自分にとっての他人と他人を比べてしまうってそれはもう烏滸がましいを超えて身勝手の極みとでもいうんじゃないかなあという気がしてきた。極端に言えば、あの人なら私にこうしてくれるのにこの人はしてくれないと考えること。いや、思う分には自由。口に出さなければ皆平和なので、とりたてて問題でもないのでしょうが。ただ、分かっていても普段実行できていないことというのは思う以上に多く存在していて、まさにそういった類のひとつであると私は認識しているよ。
 人間誰しも自分の話をしたがる生き物だなんてそんなこと、まあ当たり前なのだけれど、あまりにその度が過ぎればうんざりしてくるのもまた人のサガというもの。聞いてくれる他人は常にボランティアのような存在であるということを深く思う次第。そんなことないと否定してくる人もいそうだけれど、善意というのは結局のところ受け取り手が如何様にも変えられるのだ。決して傷付けるつもりはなくて、ただ自分に落とし込んで考えた時に、聞いてくれる人の存在の有り難さを痛感してその結果生まれたいち感想なので、気に病んだりはしないで欲しいなと思う。え?しない?ああ、すみません。
 持ちつ持たれつならぬ聞きつつ喋りつつな関係であればそんなこと気に病むこともないのだろうな。と、これまたいろんな人との関係を比較して、そんなことをぽつぽつと考える2016年の頭。
 
■嫌いなものを嫌いと言って何が悪いのか。
 悪くはない。でもきっと言う場所やタイミングの問題なのだろうなと思う。大抵の人は、目の前で自分の好きなものを貶されたら良い気分はしないでしょう。そしてそういうことを無神経にする人ほど自分が逆の立場に回ると五月蝿く騒ぐのだから、とかくこの世は生きにくい。「自分がされて嫌なことは人にもするな」なんて小学生の道徳の授業で出てくる初歩的なことだと思うけれど、例えば恋人に対してしかそういう配慮をしない人って結構多い気がする。まあ大体において当人達は幸せそうだから、黙ってそっと距離を置くのが正解なのでしょうが。盲目的な特定対象への気遣いは、一周回って考えたら負けかなと思うし。言ったところで馬耳東風。便宜上、対象を恋人としたけれど、それが家族でも友人でも本質は同じことですね。たいした差異はない。
 逆説的に言えば、そこで苦言を呈することができる関係って貴重なのではないかな。もやもやした蟠りをきちんと自分の言葉でぶつけられる相手って、そんなにたくさんはいないように思う(リスクを伴うから、いすぎても困るのだけれど)。相手の心証を悪くする覚悟で発言するのは、なかなかに勇気がいる。それを踏まえると、自分も言ってくれる相手は殊更大切にしないとなという心持ちになる。今更だけれども。
 
■年を重ねることが怖いと思う。
 老いてゆくこと自体も、子供でいられなくなってしまうゆっくりとした世間体の変化も。まあ要は、ひどく甘ちゃんなのだ。精神的に。思考や感情に制限がかけられていくのかと思うと、生きていくことは億劫だなあと。そうなるわけだ。もしもネバーランドがあったのなら、私は迷うことなくピーターパンの手を取る気がする。空も飛べるはず⊂二二二( ^ω^)二⊃ブーン

151225

◼︎昼寝をしていたら怖い夢を見た。
 もう一昨日のことになる。その世界で私は目を合わせた人の凶暴性を抑えるストッパーを外してしまうみたいで、視線がかち合って「あ、」と思った次の瞬間、その人は形相を変えて手に手に物を持って私を殺そうと襲いかかってくる。小さな小学生がうわー!と叫びながらテニスラケットの淵で突き刺そうとしてきたり、バットを持った男性が追いかけてきたり。けれど武器を一度奪い取れば相手は正気に戻るという訳のわからないおまけ付き。設定盛りだくさん。文字にするとあまりに馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうのだけれど、半分魘されるようにして目が覚めたので、夢の中の私は相当必死だったのだと思う。
 数メートルの距離をおいて穏やかな顔で歩いていた人とすれ違いざま目が合った時は、反射的に死を覚悟した。夢なのに。般若面のように、くわぁーっと顔が歪んでいく様が異様にスローに見えた。最後まで見ずに走り出したのは正解で、後ろから追いかけてくる気配が怖くて怖くて全身が冷たくなった。捕まっていたら現実世界の私も、もしかしたら死んでいたんじゃないのかなあ。猿夢ってあるでしょ、あんな感じ。全身が悪意でできているような、それこそ悪意の塊のような、そんな生物。人間の悪意を凝縮して剥き出しにしたらああなるんだろうなと、夢の中特有の直感で理解した。文字に起こしている今はもう、その恐怖心も消えかけた文字のように薄くなってはいるのだけれど。
 現実世界で出会うのは御免被りたい……。
 
◼︎そしてハッピークリスマス。
 気が付けばもう12月も終わりに近付いているのだなあと、街中のイルミネーションを見ながらふと思った。七面鳥はいらないからKFCのクリスピーが食べたい。あの、骨がないやつ。高いけど美味しいよね。
 満たされない承認欲求をまざまざと感じ取ってしまうので、クリスマスシーズンはそんなに得意じゃない。嫌いではないのだけれど、うーん。この年になるとサンタを待つ楽しみがないというのは大きな要因かもしれない。というのは3割くらい冗談として、実際イルミネーションや可愛らしいグッズ展開には心躍るのだけれど、恋人と過ごせないと寂しいというような風潮が受け付けないのだ。食べた後のチキンの骨全身に突っ込んでやりたい。基本的に引きこもっていた方が良いと自分でも思う。出かけるけどね。
 ちなみに私は1年で年末がいちばんすき。
 
◼︎期待と失望のはなし。
 を、最近何故かよくする。みんなそういう時期なのかな。冬だからね。勝手に期待して裏切られてその結果苦しくなることはどうにもありがち。けれど、人と接するというのはつまりその繰り返しなのでしょう、きっと。
 危ない場所には近付くな、なんてヒト以外の動物にすら分かることは当たり前すぎてその実消えてしまっているのかもしれない。文言だけが宙に浮いている。誰だって痛い思いなんてしたくない(はず)。それなのにひとりで生きていくことができないから人と関わり続けるというのは、丸腰で地雷原に足を踏み入れるようなものじゃないのかなあ。もっとうまくやれたはず、と思いながら何度も傷付いて涙を流してちょっとずつ前に進んでいく。
 私の大好きなとあるバンドが今年の2月に新代田でやっていたライブに新曲を持ってきていたのだけれど、その歌詞がまさに今私がつらつらと並べ立てていたようなことを簡潔に、かつ、もっともっともっともっと素敵な言葉でまとめてくれているので、とても好きだった。「もしも心が透明ならば 誰も泣かずに済んだのに」という部分が今も頭から離れない。もしかすると好きな曲ランキング1位に躍り出るレベル。来年の新譜に収録されていることを切に祈っている。
 期待することが悪だとは思わないし、それがなければ本当に人と関わることなんてできやしないと思う。ただ、やり過ぎは何事もよくないね。自戒しておく。

151213

◼︎お布団の中でその日を振り返る時間が好きだ。
 どんな1日だったかゆっくり色々なことを思い出して微睡む私だけの時間。良いこと、悪いこと、トータルで換算してトントンになればそれは大体普通の日。偏っていれば良い日、悪い日ができる。ただ、何を以って良い悪いとするかはその時の価値観によるので一概には言えない。極端な話、好きな人がいればその人と会話ができただけで9割は良い日だったなあという感情に占められるわけだ。A地点における良い日はB地点における悪い日かもしれないね。うらぶれたセンチメンタル。今夜のBGMはamazarashiの気分だよ。
 さて、今日は昨日に引き続き比較的暖かい日だったと思う。如何せんタイトルの日付が13日になっているからわかりづらいけれど、ここでいう今日は12日のことだし、昨日は11日のことです。マフラーをぐるぐるにしてコートで凌げる寒さは比較的優しい。夕方から後輩達のライブを見に行って、そのあとに同期の飲み会があって。久しぶりにたくさんの人と同じ空気にあてられて、少しばかり疲れたような気がする。友人曰く見たことがないほど随分静かだったらしい。多分石か何かになっていたんじゃないだろうか。アルコールの回りが遅いのかなんなのか、ほろ酔いが継続する体質はなかなかに重宝している。まあ今はすっかりアルコールなんて抜けているのだけれど。焼き鳥、美味しかったなあ。
 13日は20歳最後の日であるのだけれど、特に何の予定もなくて少しばかり寂しい気分である。午前中にきちんと起きられたら髪を切りに行きたいな。なお当日以降、プレゼントどしどし待っています(あつかましい)。Amazonの欲しいものリストのURLでも貼っておこうっと。
ipodはばきばきに壊れて落とし物から返ってきたからわりと切実に欲しい。はあ、お金がなくなる。
 
◼︎ついでにメモ帳から発掘した文を晒しておく。
 小さな液晶ディスプレイを、毎日毎日、必死に覗き込む。メッセージアプリを起動して、読んで、打って、閉じて。今度はその隣のSNSを開く。親指でゆっくりと画面をなぞり、人々の呟きの上を目が滑る。電車の遅延に吐かれるいくつもの悪態、バイトや仕事や学校によって生まれる憂鬱、今日はこんなものを買った、誰と会った、何処に行った。カーボン紙でとられた写しのように、日々はひどく安定して、今日も巡っている。そこに何があるってわけじゃない。見て得をすることなんてこともほとんどない。言うなれば、それぞれの生活のメモ書きを読んでいるだけのようなもの。けれど、ただただ、誰かと、世界と繋がっている感覚が欲しいばっかりに、灯りを求める羽虫のようにそこから離れられないのだ。
 
◼︎寿命が目で見えたらいいと思う。
 某死神の目みたいなね。私ももう少し生産的な生き方ができるのだろうか。などと考えてみたり。まあそんなことはたられば論でしかないのだけれど。考えるだけならタダだから良いじゃないか。タダより高いものはないとか、それはまた別の話。リミットが分かっていれば大切に日々を過ごすだろうし、身支度や心の整理というものも徐々についてゆくのでしょう。ああでも意外と発狂するかもしれないなあ。目に見えない恐怖に心が耐えられない気もするや。死ぬといえばかの有名な世界の中心で愛を叫ぶが私は結構好きで、あの彼女の言葉の節々は未だに頭にこびりついていたりする。カルシウム摂取がどうのこうのという話はさておき、骨を少しずつ毎日かじって体内に取り込むというのは一体化するという究極の愛のひとつといっても差し支えないのではないでしょうか。死後の骨でもカニバリズムに含まれるのかしら?人の共食いはくる病の危険があるんだっけね、これ人肉だけだったかなあ。
 そんなどうでもいいことを考えながら今も限られた寿命を無駄遣いしているんだぜ。

151212

◼︎言葉には賞味期限があるのかもしれない。
 先日バイト中に先輩と日本語の不思議を話していて、ふとそんなことを考えた。役不足、確信犯などが本来の意味とは異なるニュアンスで浸透している現状を見るに、50年、60年後、いくつかの言葉はやがて本来の意味で使われることすらなくなるのではないだろうかと。そんなぼやぼやとした想像が広がる。なにぶんスパンが長いから消費期限というよりは賞味期限の方がしっくりくる気がする、のだけれど。私だけかな。
 たしか中学生の時だったか、「問題な日本語」といった本を読んだ。ファミレスにおける「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」、動植物に餌を「あげる」、エトセトラエトセトラ。昨今でこそメディアが取り上げたことで多くの人が認識している誤用であるとは思うけれど、当時はあまりそんな話は出ていなかったように見受けられた。そういう意味で前衛的な作品だったのではないだろうかと。思ったり思わなかったり。多分探せばすぐに出てくると思うので興味のある人はぜひ読んでみて欲しい。きつねうどんになります、の、挿し絵ならぬ挿し漫画がとても可愛らしくて個人的イチオシ。
 少なくとも言葉に旬というものはたしかに存在していて、流行語大賞などが成立するという事実はその裏付けの筆頭たるものなのだと思う。流行りの文句とは誰もが覚えやすく、口にしやすく、つまるところアイデンティティーとキャッチーさが両立し得るところに存在する。現代社会において、あらゆるもののその殆どが消費コンテンツとして成り立っており、言葉とてそれは例外ではないわけで。期限の切れたものとは即ち忘れ去られたものであり、やがて歴史のまにまに消えてゆく。
 けれどもその反面、言葉は人の心に残る性質をも持っている。プラスにしろ、マイナスにしろ、心に影響を及ぼすというのはとても大きなことだ。人を傷付けるナイフであると共に、その傷を癒すことができるのもまた言葉であり。成立する矛盾はなんとも不思議なものだなあと思う。これまで20年と少し生きてきて、人並みに文章を読んで、人と関わってきたけれど、それらひとつひとつの欠片が現在の私の構成成分となっているのはきっと間違いない。本は別世界に連れて行ってくれるだけでなく、時に言語化できない自分の中の感情を文としてくれる、素晴らしい媒体だ。この可視化する安心感というものは他には替えられない気がする。
 他人の不用意な言葉に深く傷ついたことやあたたかく包んでくれる赦しの言葉に助けられたことは、ここ数年間だけでも数えきれないほどにあった。その度に思うところは色々とあったし、自分が他者と関わらねば生きてはゆけないのだなあという現実をまざまざと見せつけられた。実に弱っちい生き物である。そしてそうした荒波の中で、メンタル豆腐マンは今日も日々をやり過ごすことに精一杯なのであった。〜完〜
 都合の良い話だけれど、せめて私が死ぬまでは貰って嬉しかった言葉達に賞味期限はつけたくないなあ、と思う。
 
◼︎自身がネガティヴであることを解っている人間ほど傷付く要素からは離れたがるものだ。
 当たり前かもしれないけれど、これができない人というのは意外にも多く存在していて、実際、思わぬところで地雷を踏みぬきメンタル大爆散ということは往々にしてよくある。自身の落ち込むその深さや頻度、傾向をよくよく理解しておけることは一種の才能だと私は思う。自己分析は考えるよりよっぽど難しい。
 
◼︎自身の変化は気が付いたら終わっている。
 近頃、自分で思うほど自分は周りの人間のことが好きではないのだなということに気が付いた。そして酷く嫌気がさした。誤解があるといけないので補足しておくと、好きな人はとてもとても大切だし好きなのだ。ただ、その他、に対する姿勢というかなんというか。これでも一応は博愛主義を掲げているつもりだったので、特定の人に対して嫌悪感とでもいうべき感情がぽこぽこと浮かんでくるこの頃、その主義に相反する実情は我が身ながらげんなりしている。好きという感情にかける重さが人より少々大きいということは自覚しているけれど、併発して誰かを若しくは何かを嫌いになっているようでは世話ないなと思う。汚い感情はなるべくなら屑篭にでもしまっておきたい。多くの物事は相対的で、好きがあるからこそそうした嫌いといった感情が生まれてくることは重々理解しているのだけれど。ありのままを受け入れるということはなかなかに難しいのだなあ。
 それでもすべてを好きでいたい、優しい世界に生きていたいと思ってしまうのだから本当に我儘だ。