151212

◼︎言葉には賞味期限があるのかもしれない。
 先日バイト中に先輩と日本語の不思議を話していて、ふとそんなことを考えた。役不足、確信犯などが本来の意味とは異なるニュアンスで浸透している現状を見るに、50年、60年後、いくつかの言葉はやがて本来の意味で使われることすらなくなるのではないだろうかと。そんなぼやぼやとした想像が広がる。なにぶんスパンが長いから消費期限というよりは賞味期限の方がしっくりくる気がする、のだけれど。私だけかな。
 たしか中学生の時だったか、「問題な日本語」といった本を読んだ。ファミレスにおける「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」、動植物に餌を「あげる」、エトセトラエトセトラ。昨今でこそメディアが取り上げたことで多くの人が認識している誤用であるとは思うけれど、当時はあまりそんな話は出ていなかったように見受けられた。そういう意味で前衛的な作品だったのではないだろうかと。思ったり思わなかったり。多分探せばすぐに出てくると思うので興味のある人はぜひ読んでみて欲しい。きつねうどんになります、の、挿し絵ならぬ挿し漫画がとても可愛らしくて個人的イチオシ。
 少なくとも言葉に旬というものはたしかに存在していて、流行語大賞などが成立するという事実はその裏付けの筆頭たるものなのだと思う。流行りの文句とは誰もが覚えやすく、口にしやすく、つまるところアイデンティティーとキャッチーさが両立し得るところに存在する。現代社会において、あらゆるもののその殆どが消費コンテンツとして成り立っており、言葉とてそれは例外ではないわけで。期限の切れたものとは即ち忘れ去られたものであり、やがて歴史のまにまに消えてゆく。
 けれどもその反面、言葉は人の心に残る性質をも持っている。プラスにしろ、マイナスにしろ、心に影響を及ぼすというのはとても大きなことだ。人を傷付けるナイフであると共に、その傷を癒すことができるのもまた言葉であり。成立する矛盾はなんとも不思議なものだなあと思う。これまで20年と少し生きてきて、人並みに文章を読んで、人と関わってきたけれど、それらひとつひとつの欠片が現在の私の構成成分となっているのはきっと間違いない。本は別世界に連れて行ってくれるだけでなく、時に言語化できない自分の中の感情を文としてくれる、素晴らしい媒体だ。この可視化する安心感というものは他には替えられない気がする。
 他人の不用意な言葉に深く傷ついたことやあたたかく包んでくれる赦しの言葉に助けられたことは、ここ数年間だけでも数えきれないほどにあった。その度に思うところは色々とあったし、自分が他者と関わらねば生きてはゆけないのだなあという現実をまざまざと見せつけられた。実に弱っちい生き物である。そしてそうした荒波の中で、メンタル豆腐マンは今日も日々をやり過ごすことに精一杯なのであった。〜完〜
 都合の良い話だけれど、せめて私が死ぬまでは貰って嬉しかった言葉達に賞味期限はつけたくないなあ、と思う。
 
◼︎自身がネガティヴであることを解っている人間ほど傷付く要素からは離れたがるものだ。
 当たり前かもしれないけれど、これができない人というのは意外にも多く存在していて、実際、思わぬところで地雷を踏みぬきメンタル大爆散ということは往々にしてよくある。自身の落ち込むその深さや頻度、傾向をよくよく理解しておけることは一種の才能だと私は思う。自己分析は考えるよりよっぽど難しい。
 
◼︎自身の変化は気が付いたら終わっている。
 近頃、自分で思うほど自分は周りの人間のことが好きではないのだなということに気が付いた。そして酷く嫌気がさした。誤解があるといけないので補足しておくと、好きな人はとてもとても大切だし好きなのだ。ただ、その他、に対する姿勢というかなんというか。これでも一応は博愛主義を掲げているつもりだったので、特定の人に対して嫌悪感とでもいうべき感情がぽこぽこと浮かんでくるこの頃、その主義に相反する実情は我が身ながらげんなりしている。好きという感情にかける重さが人より少々大きいということは自覚しているけれど、併発して誰かを若しくは何かを嫌いになっているようでは世話ないなと思う。汚い感情はなるべくなら屑篭にでもしまっておきたい。多くの物事は相対的で、好きがあるからこそそうした嫌いといった感情が生まれてくることは重々理解しているのだけれど。ありのままを受け入れるということはなかなかに難しいのだなあ。
 それでもすべてを好きでいたい、優しい世界に生きていたいと思ってしまうのだから本当に我儘だ。