160106

■新年明けましておめでとうございます。
 遅ればせながら。今年もどうぞよろしくお願い致します。
 なんだかんだとメモ帳ブログも開設から1ヶ月経ったようです、やったね!
 
■満ち足りているからだんだんと我儘になってゆく。
 自分と他人を比べることですら烏滸がましいのに、自分にとっての他人と他人を比べてしまうってそれはもう烏滸がましいを超えて身勝手の極みとでもいうんじゃないかなあという気がしてきた。極端に言えば、あの人なら私にこうしてくれるのにこの人はしてくれないと考えること。いや、思う分には自由。口に出さなければ皆平和なので、とりたてて問題でもないのでしょうが。ただ、分かっていても普段実行できていないことというのは思う以上に多く存在していて、まさにそういった類のひとつであると私は認識しているよ。
 人間誰しも自分の話をしたがる生き物だなんてそんなこと、まあ当たり前なのだけれど、あまりにその度が過ぎればうんざりしてくるのもまた人のサガというもの。聞いてくれる他人は常にボランティアのような存在であるということを深く思う次第。そんなことないと否定してくる人もいそうだけれど、善意というのは結局のところ受け取り手が如何様にも変えられるのだ。決して傷付けるつもりはなくて、ただ自分に落とし込んで考えた時に、聞いてくれる人の存在の有り難さを痛感してその結果生まれたいち感想なので、気に病んだりはしないで欲しいなと思う。え?しない?ああ、すみません。
 持ちつ持たれつならぬ聞きつつ喋りつつな関係であればそんなこと気に病むこともないのだろうな。と、これまたいろんな人との関係を比較して、そんなことをぽつぽつと考える2016年の頭。
 
■嫌いなものを嫌いと言って何が悪いのか。
 悪くはない。でもきっと言う場所やタイミングの問題なのだろうなと思う。大抵の人は、目の前で自分の好きなものを貶されたら良い気分はしないでしょう。そしてそういうことを無神経にする人ほど自分が逆の立場に回ると五月蝿く騒ぐのだから、とかくこの世は生きにくい。「自分がされて嫌なことは人にもするな」なんて小学生の道徳の授業で出てくる初歩的なことだと思うけれど、例えば恋人に対してしかそういう配慮をしない人って結構多い気がする。まあ大体において当人達は幸せそうだから、黙ってそっと距離を置くのが正解なのでしょうが。盲目的な特定対象への気遣いは、一周回って考えたら負けかなと思うし。言ったところで馬耳東風。便宜上、対象を恋人としたけれど、それが家族でも友人でも本質は同じことですね。たいした差異はない。
 逆説的に言えば、そこで苦言を呈することができる関係って貴重なのではないかな。もやもやした蟠りをきちんと自分の言葉でぶつけられる相手って、そんなにたくさんはいないように思う(リスクを伴うから、いすぎても困るのだけれど)。相手の心証を悪くする覚悟で発言するのは、なかなかに勇気がいる。それを踏まえると、自分も言ってくれる相手は殊更大切にしないとなという心持ちになる。今更だけれども。
 
■年を重ねることが怖いと思う。
 老いてゆくこと自体も、子供でいられなくなってしまうゆっくりとした世間体の変化も。まあ要は、ひどく甘ちゃんなのだ。精神的に。思考や感情に制限がかけられていくのかと思うと、生きていくことは億劫だなあと。そうなるわけだ。もしもネバーランドがあったのなら、私は迷うことなくピーターパンの手を取る気がする。空も飛べるはず⊂二二二( ^ω^)二⊃ブーン