名称をつけることで脳内の整理を図るのだ

 よろしくない、非常によろしくない。精神衛生の話である。
 寒さがしんと指先から染み込んでくるようになったせいか、心の中になんとも言えないさみしい気持ちが居座り続けている今日この頃。居座り続けていたものが冬になるにつれて存在感を増してきたという方が正解なのだろうけれども。
結果、元気なペシミストとかいう訳の分からない状態に陥っている。楽しいものは楽しく、美味しいものは美味しい、なんて都合のいい。
 厭世観は年に数回お決まりのようにくるので今更なのだけれど、どうにも今年はそれが重いように感じる。原因はなんとなく。多分、春から環境が変わることに対する不安が大きいのだろう。
適応能力が低いわけではないしそこそこ馴染んでいく確信もあるのに、今にしがみつこうと必死になってしまう。時間だけが過ぎ去っていって、気が付けば今年も残すところあと2ヶ月だなんて。憂鬱とも落胆とも言えるずどんとした感情が胸中を占める。このまま心と体が千切れて離れ離れになってしまうような心配が、常につきまとっている。
 積極的に生き急ごうとも思わないけれど、そこにある種の諦念があることは否めない。生あるものは皆いつか死ぬのである、なんちって。
陽の落ちたホームで電車を待ちながら、人って本当にふらりと死んでしまえるのだなあと妙な納得をしたことも記憶に新しい。辛いことで心を摩耗していなくとも、なんとなくで人は死を選べるのだ。念のため断っておくと、勿論、だから自分がどうこうというわけではない。
 ひととの繋がりを色んな形で可視化するスマホは便利だけれど、多分最近はそれに少し疲れてしまった。何も持たず外の冷たい空気の中を散歩すると心の中が換気される気がする。
それくらい見たくないもの、聞きたくないもの、知りたくないものは世の中に意外と多くあって、時々ワッと泣いて逃げてしまいたくなる。はたまた、理不尽に怒りを燃やして当たり散らしたくなる。まあ、とどのつまりは現実逃避なのだろう。そうして、何もかもを誰かのせいにしようとする自分に毎日のようにうんざりしている。
けれど、自分だけが悩んでいると思うなという台詞はノーサンキュー。そんなことは何よりも先に理解しているし、その上で自分一人の感情で精一杯になっているのだから他者の事情など慮る余裕はない。第一、個人差しかない感情面の問題を並列に語るなんて理想論じゃないだろうか。
 自分でどうにかできたらいいのだけれど、これがなかなかどうして上手くいかない。どころか、嘘も愛想も確実に下手になっている、本当に困った。あれこれ壊して回りたいわけではない(と思う)のに。
 どこかに根暗に効く良い処方箋があればなあと、ひたすらに瞼を閉じてはそれを探す日々である。おやすみ。