考えていることと感じることとはまた別物である

 当たり前のことのようで案外分かっていなかったのかなあと思う今日この頃。
 
 昨日の昼過ぎ、潮の香りの薄い海岸で風に当たりながらぼーっと色々なことを考えていたのだけれど、頭の中で大きく容量を取るそれらはひとつだってまとまることも解決することもなかった。世知辛い。ない頭を絞っているんだから、ひとつくらいおまけしてくれてもよくないかい?かみさま。
まあでも、脳内ですべての問題が解決するならば今頃とっくに世界は平和になっているので、当たり前といえば当たり前なのである。
 無気力は人を殺す、この数年そう信じてはばからなかった私だけれど、未だに多分それは真実であると思っている。なんといっても、人が生を手放すことはひどく容易い。余談として、指先をつけた今の時期の海はまだまだ水温が冷たすぎて入水自殺する人ってほんとすごいなと思った(なお、このすごいは尊敬という意味ではない)。
 
 ワインボトルを1本空けてみるも、なけなしのプライドと体質が思考へのアルコールの侵食を止める、理由のわからない涙が少しずつ頭を覚めさせていく、だんだんとクリアになる頭の中でぼんやり思う、目を閉じてこのまま朝が来なければいい。
 幸せな時は悪夢を見て、辛い時には幸せな夢を見るという話を中学時代によく聞いていた。
当時はたしかにねーなんて笑い飛ばしていたわけだけれど、この年になって個人的に思うのは、辛い時に見る幸せな夢ほど悪夢であるものはないということ。
いつだって自分を効果的に傷つける方法は自分が1番よく知っている。いやはや、まったくもって腹立たしい。被虐趣味など別にないというのに。
目を閉じて、夢の中で終われたのならそれは間違いなく幸せだろう。だけど生憎私たちには目覚めた後の現実が待っているわけだ。どんなにへそを曲げてそんなことを思ったところで、多くの場合、目が覚めないことはない。
だから、眠るように生を終えることができる施設があったとしたらすぐに駆け込むのではないかと、真剣に考える時が数年おきにくる。
 仮定に縋ることですら、ひどく気力を使うのだ、仕方がない。
……どうでもいいのだけれど、仕方がない、という言葉を自分にかける時、ほんの少しだけ罪悪感に苛まれる。
ひとにかける分には全く気にならないのに不思議なものだ。
ひとに優しく、自分に厳しく。文言の耳触りはいいけれど、自身が生きにくいことには違いない。
 
 自分の気持ちや、心や、その他すべてのものをかけてひとの幸せを願うことはやっぱり少しおかしいのかも、しれない。