繰り返す度に思う「もうやめよう」が果たされたことはない

 ずっとふわふわとした状態が続いている。自分が何を思っているのか分からなくなって、とても気持ちが悪い。
 
 先週、9年と少し、一緒にいた愛犬が逝った。膵炎か胃腸炎、だった。詳しい検査結果が出る前に、たった3週間で、転げ落ちるように病状が悪化して逝った。
自分のストレスで手一杯でろくに構ってあげることのできなかった2週間、思い返すと申し訳なくて情けなくてどうしようもなくなる。ごめんねと謝ることですら自己保身のようで、何よりもういないあの子には何を伝えることもできない。歩けるうちに、ご飯の食べられるうちに、もっともっとたくさん気にかけて一緒にいてあげればよかった。いつだって寄り添っていてくれた家族のために、私は最期に何をしてあげられたのだろうと思う。
 最期の夜、荒い呼吸を繰り返すあの子の手を握りながら、初めて我が家に来た時のこと、大好きだったおやつのこと、一緒に帰省した時のこと、夜が深まるにつれ押し寄せる眠気に半分うわ言のようになりながら、思い出をぽつりぽつりと話しかけていた。段々と落ち着いていく呼吸音に、ああもうだめなのかと心のどこかで感じた。精一杯頑張ってくれたあの子をこれ以上頑張れと励ますことは、酷だとすら。少しして、突然零れ落ちるほど目を大きく開いたあの子を見て、慌ててその胸に当てた私の手の中で心臓はとくんとひとつ弱く音を立てて、止まった。数秒おいて、口と尻から溢れ出した血の鉄臭さが、ひどく鼻をついた。
 まるで眠っているようだった。目の前で起こったことなのに、実感なんて欠片もなかった。隣で泣く妹の声が他人事のように聞こえた。いつもみたいに声に反応してむくりと起き上がってくるんじゃないかと、何度も思った。
現実を直視したくない自分がいる一方で、冷静にすべてを見ている自分も確かに残っていた。1番あの子を可愛がっていたのは父だ。だからこそその反動が心配だった。明け方、ふと目が覚めた時に襖の向こうから聞こえた父の嗚咽をもらした泣き声が、耳から離れない。近しい人が苦しんでいる姿を見るのは、自分がそうなるよりもずっとずっと、苦しい。
 翌日、仕事を終え帰宅して横たわるあの子を見ても、眠っているんじゃないかという疑いの気持ちはなくならなかった。それくらいに穏やかな寝顔だった。
すっかり固まって冷たくなった身体を毛布に包んで火葬場へ連れて行った。もう苦しまなくて済むね、よかったねと話しかけた道中、壊れたように涙と鼻水が止まらなくなった。今ならまだ間に合うから、起き上がるなら今だよねえ、なんて馬鹿馬鹿しいことを考えた。
たったの1時間弱で、あの子は小さな小さな骨になってしまった。ふわふわで柔らかな毛も表情のよく出る小さなきらきらの目も、灰になって消えてしまった。生前は少し大きめね、と言われていた身体は4寸なんて小さな壺にすっぽりと入りきってしまった。冷たくて重い、だけど元の重さからは信じられないほど軽いそれを抱えた帰路ではもう、何も言うことができなかった。持つべき言葉や声を失ってしまったような気がした。
 生きとし生けるものはみな最後には必ず死ぬ、それは自然の摂理だ。けれど、あまりに短すぎやしないだろうか。9年間、そばにいるのが当たり前だった。染み付いた無意識は簡単に消え去ることはなくて、いつもあの子が回収していたサランラップの芯が紙ゴミの袋からなくならない、リビングで立ち上がっても後をついてくる足音が聞こえない、夕方のチャイムが鳴っても散歩を催促する声が聞こえない、そんな小さな差異を実感する度に心の底に重たく何かが溜まっていく。喉元に何か詰まっているかのように、呼吸が苦しくなる。
 この数ヶ月、ひとつひとつ、少しずつ生じて積み重なっていたズレが完全にバランスを崩してしまった。どうしたらそれを直せるのか、もう皆目検討もつかない。
 元気にならなくてはと思う。それが残された者の責務というわけではない、ただ元気がなければ自分も他人も不幸にしかならないから頑張らなくてはならない、多分。当たり前にできていたことをすべてまた、元通りにして過ごせるようにならなくてはと思う。そして今、それは概ねできている、多分。
 
 生きるとは一体何なのだろうかと朝電車に乗りながら、夜眠る前に、ふと考える。私はもしかすると、予定より少し長く生き過ぎているのではないだろうか。そんな空想めいた考えが頭をよぎるくらいには、なんでもいいから理由が欲しかった。そうでもしないと、足元が分からなくなる。呼吸する時間が伸びるほど、かんなをかけるみたいに1枚ずつ、生にしがみつく理由を削り取られている気がする。置いていかれる記憶が増えていく現実が、どうしようもなくしんどい。
 昔は夜が来ることが怖かった。明るい時間を塗り潰して陰鬱な気持ちを運んでくる真っ暗な夜が、たまらなく怖かった。だけど今は、眠って、朝が来ることの方が怖い。誰に保証されているわけでもないけれど、限りなく100%に近い可能性で私は目を覚まし、明日も明後日もやってくる。当たり前のその繰り返しが、足を止めたままの私の一部を置き去りにして、どんどんその距離が開いていくのだ。
 社会人としての生活の始まった今、毎日やることはある。休日だって人と会い、充実しているのだと思う。朝からきちんとした生活を送り病気になることもなく、身体面に何も不具合はない。仕事で新しい知識を学ぶ度に、楽しいと感じる。久しぶりに勉強をする感覚に、好きなことだけを学べる贅沢さを実感する。もっと頑張らなくては、と思う。
 それなのに、どこか感情の動きに心が全部ついていっている気がしない。借り物の身体を動かしているような感覚が離れない。ものすごく気持ちが悪い、本当に。
このもやもやしたものを突き詰めていくと、すべてどうでもいいやという感情に収束することは分かっている。何もかもが面倒臭い、だけど自ら死ぬ勇気はない、だからあわよくば誰か殺してくれないかとぼんやり思う。しいて言えば、奨学金ちゃんと返済しなくちゃいけないなあ、その程度のプライドが原動力となってこの身体を動かしている。かの先人の言を借りると、「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」である。
 私は他人のために生きているわけじゃない。それは反対も然りで、私のために生きている他人なんていない。社会的動物であるがゆえ環境として生きていけないとしても、究極的に人は孤独だ。個人の力じゃどうしようもない他人の存在を自覚させられると、利己主義の塊みたいな人間であるためか、分かっていても現実にひどく落ち込みはする。
 
 頭で理解することと、噛み砕いて受け入れることは別物だ。時にそれは残酷なほどちぐはぐで、いつだってイコールにはならない。泣きたくて、だけどできないからただひたすら途方に暮れるような、そんな風に帰結することしかもう許されていないのだ。