何かを求める行為が高慢であるならそれで構わない

 先日。喪服、を買いに行った。
恐らく(葬式に主催もクソもないにしろ)、それを近い未来使うことになる場面の主役である本人と。なんの悪い冗談だよ、ほんと。
 「あら、似合うじゃない」と椅子に座りながら言った祖母はけろりとした顔をしていた。私は曖昧にそうだねと笑んで、鏡の中を見つめるフリをしてそっと視線を外した。やるせなさでざわめく胸を押し込めて、泣かなかった自分を褒めてやりたい。
 最近の礼服はすごい。紳士服売り場の横、一階の左半分エリアのラック4つ分。値段のもっと高いものを含めればそれ以上。ずらりと並べられたそれらは使用用途に相応しい落ち着きがありつつも、裾のフレア感やウエストの絞り方、襟やリボンの有無ありとあらゆる可能な限りのお洒落みたいなものが詰め込まれていた。
購入したのはオールシーズン、ボレロとジャケットがセットのもの。スーツと同じで、ああいうのにも夏用とかあるの、知らなかった。
 学生服で葬式に出たのは記憶にある限り、1回きり。学生服を着るような年齢はとうに過ぎ去ったのだと妙な寂しさが胸をよぎった。別にいらないけど、そんな機会。
 本人が何気なく口に出す墓とかそういう話、が、じわじわと指先から染み込んでくる神経毒みたいに思える。やめてとも言えない。
週末顔を見に行く度に話せることにほっとして、歩く姿を見るとこのまま夏も秋も過ぎて年を越せるんじゃないかと思ったりもする。どうかできるだけ長く。
 もしもこのまま、こんな自分がどこにいるかも分からないふわふわした気持ちのままお別れを告げることになったら、私はきちんと心の底から悼むことができるのだろうか。あっちこっちとまた心が千切れて、自分のストレスで手一杯になってしまう気がしてならない。
不誠実過ぎて吐き気がする。
 
 なんというか、なんというか。
どうしてこんなことになっているのだろうと不思議で仕方なくて、途方に暮れていて、ひたすらに自分で自分を持て余している。
 22年と少し、これまで生きてきてずっと私は自分を比較的、理知的な人間であると思ってきた。それは思い違いだったみたいだ。
血の気は多い、感情的な部分だって少なからずある。だけど思考を停止したことはないし、多角的に見る基本姿勢は保ってきたつもりだった。ストレスだってきちんと自分の中で上手に消化をしてきた。
 本を読んで、音楽を聴いて、運動をして、ケアをして、人と会って、ご飯を食べて、きちんと眠って。分からない、これ以上一体何をどうしたらいいのか。ぐしゃぐしゃになったものを元通りに直すのはどうすればいいんでしょう。原因がすべて現状どうしようもできないことも分かっているから余計に苦しくなる、そういう悪循環。
 あれしろこれしろ未来はどうのこうの、先のことに期待を持ててたらこんなことにはなってない。全部がただのプレッシャーに感じる。やめてくれよ頼むから。
何度釘を指しても聞く耳を持たなかったわりに、思うままに伝えても結局理解できないと放り投げられる。そんな中途半端な優しさなら最初から向けないでくれ。
 たぶん、辛いんだと思う。たぶん、そう。よく分からないけど。頑張ってきたものがぽっきり折れてからずっと、離人感が拭えない。他人に迷惑しかかけないくせにほんとなんで生きてるの、お前?そう、心底不思議に思う。
 普通に生活を送っていても正常かそうじゃないかといえば間違いなく後者で、なんでもないことで不意にぼろぼろと涙が出たりそれがおかしくて笑いが止まらなかったり、なんか完全にぶっ壊れてるなあとは感じる。ほんとウケる、正気かよ。
些細なことがきっかけでフラッシュバックは止まらないし、慢性的な息苦しさにもそろそろ慣れてきた。いっそ流れに身を投じて受け入れる方がいくらかマシだと知ったのはつい最近。少なくともそれで蕁麻疹は治った。薬を飲めば眠気はきちんとやってきて、ただ朝が少し起きづらくなるのと日中眠気が残りすぎるのはいただけない。
 うん、そう、だから頭がおかしいなんてそんなのとっくの前から自分が一番分かってるんだよ。最高のエンターテインメントですね?スイッチで切り替えるみたいに簡単に感情を止められたら苦労なんてしない。反吐が出るなあ。
 
 春が来る前に死ななくちゃ、どこかで読んだか見たか、そんな言葉が頭の中をずっと漂っている。記憶がすべて綺麗さっぱり消えるかさもなくば。瞬きのうちにもうすぐ嫌いな季節がやってくる。
 助けて欲しい、とかもうそんなことを言うことすら許されないのだろうけど、それでも思ってしまう。エゴの塊過ぎて苦しいね。